SNSで評判を聞き足を運んだ。漫画特有のタッチを、可能な範囲でアニメ映画に落とし込むというかなり狂気的な作りながらも淡く美しい世界観。
一方で、自分自身はなぜか「響かない」という感想を抱いてしまった。
映画だけを見ており、原作である漫画は見ていない人間そして動画をちまちまと投稿している人間の端くれの感想であることを留意していただきたい。
そしてもうひとつ、私はこの作品自体は素晴らしいと思ってるもののいわゆる「自分の口には合わなかった」というスタンスでこれから語ることを踏まえてほしい。
ここからはネタバレ有り
主人公たちがすでに才覚があり、すぐに評価された点
これが最初の「無」ポイントだった。藤田は4コマ漫画上で京本と出会うことで猛練習し結果として2人で漫画を提出し佳作を勝ち取る。
まず一つの読み切り漫画作品を仕上げるというのは相当の力量がなければ困難である。これは漫画でなくても何か一つの作品を作り他人に見せたことのある人間ならわかるだろう。
そしてそれを、出版社に持ち込み応募したというエネルギーがすごい。藤田と京本は東北生まれ育ちなため、まず持ち出すにもそれなりの手間と苦労があったはずだ。それを「なんなくやってのけたように見える」ことがより異質というか異才っぷりが出た。(せっかく作ったのに躊躇って外に出さずにいる、という者も大勢いる)
さらにさらに、出版社の人からも評価されてるっておま……ちょ……?
この三つだけでも「才能ありすぎあり得ない」と心がポキポキ折れたのかも知れない。
考えてみれば、藤田にとって「漫画を描くことが自己表現または他者と関わるきっかけそのもの」なのだ。だから口も悪いし、友達と関わるのもかなり無器用。この辺りは、なんかすごーく沁みた。
自分以外の誰か(特に似たような能力を持つ人)から評価された経験
これも正直、レアケースな気がする。
小学生時の藤本のように、明らかに自分より才覚ある人間を見つけたらまぁ挫折する。ところがひょんなことからその人間である京本と出会った上に京本は藤田のファンだというではないか!
京本、あまりにも心が広く優しい人間すぎやしないか。できてる。できすぎてる。
「幼少期の好き」を肯定したり認める人というのは少ない、本当に少ない。貴重な該当ケースはあの「さかなクン」くらいではないか。
藤田の周りももれなく否定派が多かったなか、唯一見てくれたのが京本だ。もともと人間関係面で不器用な藤田は京本に対してある種の依存をし始めてしまうのも無理はない。それがやがてあの話になるのは、わかっていたが見てて苦しかった。
さらにその誰かと協力し補い合い作品作り表現するという経験
2人以上で互いに協力しながら表現するというのは、様々な困難が伴う。情報共有のミス、価値観、得意分野、他者への不信などなど……意外とシンプルな理由で亀裂は走る。
しかし、藤田と京本にとって「初めてまともに自分(の才覚)を見てくれた人」という共通点から2人で漫画を描いていく。こんな、こんな尊いことが本当にあるのかとたまげた。
そう考えると……
私にはそのどれもない。
動画は基本的に全て1人で作っている。サムネも、原稿も、編集も。
本当に人に見てもらえてるのか、評価されてるのか、そもそも続くのかと日々不安でたまらなかった。
チャンネル運営や動画投稿に当たって色々調べたりどうしていくか考えたりしていたとはいえ。
近年になってやっと、自分の持つ能力を少し把握し見てくれている人はいる、と感じられるようになった。たとえ現実面で評価されなくとも、動画の方では高評価を押してくださる方がいて、見てくださる方がいる、とてもとてもありがたいことを大人になってようやく実感している。
私を……かなりおこがましいが、藤田に例えるとして、私にとっての京本はもしかしたらどこかでもう会ってるのかもしれないし、会ってないかもしれないし、はたまた映画のように……。
そう思うと、逢瀬と表現は不思議な関係を持っているのかもしれない。私にもそんなときがくるのか。ともかくやれることは続けることだ、と書きながら思い始めてきた。
絵や映像はかなり繊細で、漫画特有の表現をできる範囲でアニメーシアに落とし込んだのが凄まじかった。そりゃスタッフロールで先に制作スタッフが出るのも当然である(通常は声の柴尾を担った人か監督•脚本あたり)
誰かと共に創作•表現してる人ほど響く作品なのかもしれない。